かとじゅんの技術日誌

技術の話をするところ

努力する人が最後には”できる人”になる

先日の2月3日で39歳になりました。社会人20年を振り返ると苦労の歴史でした。でも、それは誇らしいことでもあります。
今でこそ「できる人」というイメージが強いかもしれませんが、、駆け出しのころは全くできない子でした。
ということで、苦労話。タイトルがありきたりですが、でも難しいことなんであえてつけてみた。押し付ける気も全くないですけど、できるやつが何 後付でカッコつけてんだよ!とか、非論理的だなって言われると思います。それは否定しません。そんなことは承知の上で、以下 おやじのうんちくをたれます。

限界を超えた努力

初めてのプログラミングは10歳の時にBASICでプログラムです。なんか難しいこと簡単にやらせてみたい欲求があって、PCというのは難しいけど楽しいかもしれないと思った。その頃の「好き」のレベルはまだ淡い幻想です。
それ以来、社会人になるまでPCはゲーム機でしたが、社会人になってC言語をやるようになった。必要に迫られてなので、これは好きも嫌いもない。やらなければならない状況。まぁ、C言語のポインターのハードルが高いこと。正しく、苦しみながら覚えるC言語です。どの本もポインターの説明が分かりにくくて、自腹で本を何冊も買ってなんとか理解。C言語を操れるようになる、つまり「できる」ように少しずつなると、なんだかなーと思っていたC言語の良さが見えてきて、だんだん好きになってくるわけです。
その後、C++を勉強してみたが挫折。その後SIerに転職して始めての現場が、ろくにオブジェクト指向もわからないのに、Win32/C++でRPCやスレッドのクラスライブラリを作る現場でした。右も左もわからず肉体的にも精神的にも追いつめられていました。言語の機能を覚えても、オブジェクトというものを使った設計思想を理解しなければ使いこなすことができないことを知りました。当然なんですがね。その当時はわかりませんでした。プログラミングは好きなはずなのに、なんか通勤の足も重いわけです。
まぁ、やりきってダメなら、その時考えればいいかって想いで愚直に取り組んだ。岩に爪を立てて攀じ登るが如く。それでなんとかC++がわかるようになったときは、目の前が開けて本当にプログラマは天職だなと想いました。
「やり切ってダメなら」の考えは今も変わりません。今では、自分に向いていることを仕事にできたと思いますが、自分のこういう資質ってのは簡単にはわからなくて、「好きだからできる」のか、「できるから好き」なのか、それだけでは見えてきません。自分が思うには「限界を超えた努力」をしないと、自分自身で本当の答えに気付けないというか、見えないものだと思うんです。

資質は探して磨くが基本

誰も最初から資質がどこにあるのかわかりません。自分に資質があるかどうかは努力しないと見えてこないものです。そして、その資質があるかどうかは誰も教えてくれません。自分で見つけるしかありません。資質があると分かっても、自分で磨かなければそのままです。
これは宝石の話に似てます。鉱山から宝石を彫り出し、その原石を磨かなれば自分にどんな可能性があるかなんてわかりません。
天性の天才はこういうことしなくていいから楽だと思うかもしれないけど、自分で築き上げた努力の天才の方が、人生の楽しみとか、深みとか、満足度とかが違う。最初からできるよりは、できないことができるようになった方が何倍も楽しみがあります。
できる人と比べて勝ち負けではないのです。人それぞれに個性があって、華の咲かせ方は違うのだから比べてもしょうがないのです。比べるなら昨日の自分と比べて成長しかたどうかです。それしかないです。
自分はここまでしかできないと決めつけてしまうことが、一番よくないことだと思うわけです。そうなってしまえば、宝石を掘り出すことも、磨くこともしなくなってしまう。つまり努力しなくなることが一番怖いことです。

決めたら大木を目指す

ITはそれほど好きじゃない人も、その場でまず「なくてはならない人」になりましょう。そこまで好きじゃないって自分自身がよくわからないまま、早合点で判断せずに、やり切ってみればいいと思うんですよね。そうしたら、意外に楽しくて、「あ、これは好きかもしれない。うーん、面白い。好きだ」となるかもしれません。思い切ってやって「あー、こりゃダメだ」と思うなら、それはそれで本当の答えを得たということではないかと思う。中途半端にやっても向き不向きはわからないと思うんですよね。(不向きと分かれば、進路を変えても悪いことではないと思う。時には撤退するのも選択肢のひとつです。歩んできた道のすべてが無駄ではないと考えて次に進めばいい。自分の向いている分野を探して”できる人”を目指せばいい。大事なのは歩みを止めないこと。これも努力のうちで、努力し続けなければ”できる人”にならない。)

そして、大事なことは資質を探して磨く努力をすることです。それもしないで「自分は何もできないやつだ」という決め付けるのは道理にかなっていないですよねってことです。一本の木も一日二日で大木にはなりません。いかなる成功者も一年や二年で大成したわけではないって事です。大木になるには日々の努力しかありません。日々の努力を続けている人は必ず大木になれるということです。
イチロー選手も「小さなことを積み重ねることが、とんでもない所に辿りつくただ一つの道」といってますしね。(天才のイチロー選手とは我々は違うのだからマネできんだろが!ってことですよね?天性の才能だけで”できる人”になれるのか。答えはなれるかもしれないし、なれないかもしれないだと思う。確証なんてありません。天性の才能や協力者などの環境面のサポートは否定するつもりはありません。あれば越したことはないのですから。でも、彼らとて”努力なし”では自分の目標は達成できないと思うわけです。天性を使うにも努力は必要。個人的には努力は能動的に状況にあわせて、自分を変化させていく為の手段だと思っています。)

まぁ、生き急いでいる感覚はないのですが、傍目から見れば、「そんなに生き急がなくてもよいではないですか」っていう見方もあるかと思います。しかし、死に様って生き様なんですよね。死ぬ間際になってあれこれやってればよかったと後悔してもしかたがないわけです。普通は自分がいつ死ぬかなんて考えないけど、明日は生きているかもしれないけど、明日に死なないとは言い切れない。
自分は本当に何のために、この世に生まれてきたかって根本的な目的をきちんと考えずに、適当にやっていると最後の時に後悔してしまうというのが持論です。これが運命だと諦める方がよっぽど楽で、明日に死んでも俺には悔いがないという生き方は楽じゃない。死闘です。でも、何かを成し遂げるってそういうことではないかな。
だから、例えば「プログラマで少しでも人の役に立つこと」が俺の人生の目的だと思えるならそれでよいと思う。他人が決めることではなく自分が決めることだから、なんでもいいと思う。自分の生きた証を残すことができればね。
目的や目標を持たずに奔放に生きても、なかなか自分の思い通りにはならないのは自明。だから、今日は何をするための一日か決めて行動している人は理想に近づける人なんだと思う。どんなことがあっても、いわれても、自分の歩みを止めずに、諦めずに前に進めばいいと思う。

今はソーシャルに人と人が繋がって交友できる時代なんで、ノウハウを持っている人と気軽にコミュニケーションを取れる時代です。昔からしたら努力のための手段が楽なったというか、多様化したというかw 本当に楽しんで研鑽できる世の中だと思います。
若い人も若くない人も、自分にだって努力すれば何かできるんじゃないかって想って、小さな目標でも決めて行動する人が最後には”できる人”になるのだと思います。簡単だけど難しいこと、でも難しいけど簡単なことかもしれません。

追記:
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